老舗アニメ映画監督で例える僕の芸風

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こんにちは、四万十町在住パフォーマーの松葉川健一です。

今日はちょっと僕が関わっている芸風を大胆にも、アニメ映画監督の高畑勲、宮崎駿、押井守を引き合いに出して例えてみたいと思います。

今回の記事は自分自身の頭の整理という意味合いが大きいので、人に伝わるという要素を度外視していきますので、

読んでもあまりわからないかもしれません。

それでも読んでいただけるという方だけ読んでいただければと思います。

 

塩江でのパフォーマンス

今回の記事を書いてみようと思った発端は、少し前に高松市の塩江で行ったパフォーマンスです。

僕は、人生で初めて会った地域おこし協力隊であり、今も気が合って仲良くさせてもらっている、塩江の協力隊の方に呼ばれて、

瀬戸内サーカスファクトリーと塩江の上西という地域の方々の交流のためのバーベキューに参加させてもらい、

そこで大道芸風のパフォーマンスをさせていただきました。

その時、僕は瀬戸内サーカスファクトリーの代表の田中未知子さんの前でパフォーマンスするにあたって

とても恥ずかしくていたたまれないという気持ちに支配されていたのですが

それが何故なのか突き詰めてみたかったのが、今回の記事につながりました。

結論から言うと、僕は瀬戸内サーカスファクトリーという看板を背負ってパフォーマンス出来るような

作品を持ち合わせていなかったからということになります。

宮崎駿と高畑勲

スタジオジブリの高畑勲監督が亡くなってからというものの

僕はよく時間を見つけてはスタジオジブリの映画作品を見直していました。

同じスタジオジブリでも高畑勲監督作品と宮崎駿監督作品では全く赴きが異なり、

その違いのアナラジーで僕のいたたまなくなった原因を、ふんわりと説明出来るのではないかと思いまして、つらつらと書き出してみます。

高畑勲監督作品

高畑勲監督作品は雑に言ってしまうと(本物にコミットしている)と思います。

黒歴史とでも言えそうな「となりの山田くん」は置いておいて、

「火垂るの墓」にしても「おもひでぽろぽろ」にしてもリアリティに関するこだわりがとても強いように思います。

「おもひでぽろぽろ」は主人公のタエ子が紅花農家へと農業体験をしにいく話しだけれど、

高畑勲は映画制作時にその紅花作りについて様々な本を読破して、その研究結果を一冊の大学ノートにまとめたところ

そのノートを見た本業の紅花農家が舌を巻いたという逸話が残っています。

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「火垂るの墓」は最近みたのですが、恐らくメタファーと思われる描写がとても多いです。

恐らくですが、文学の知識がなければ見落としてしまうような、

教養がある人でなければ前提条件がわからず理解出来ないような描写が随所にちりばめられているようで

改めて見返してみると、何かしらの意味を表していそうだけど理解出来ないシーンがいくつもあります。

僕の尊敬する映画監督の押井守は著書で「火垂るの墓の主人公の兄妹の描写からは近親相姦の臭いがプンプンする」という趣旨の発言をしています。

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本物にコミットしているから、その内容は本当に濃厚で

見る人が見なければわからないんだけど、確かな知識と努力に裏打ちされた価値がある。

高畑勲監督の作る映画はそういう作品だという風に思います。

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宮崎駿監督作品

対する宮崎駿作品は(面白さの実感にコミットしている)と思います。

言わずと知れた、と言えそうですが、宮崎作品はどれもみずみずしいまでの動きの描写に溢れています。

高いところから落ちて足下からしびれがジワーンと上がっていくシーン

空を自在の飛び回っている周りの気流の乱れ方

水の流れ方やしぶきの上がり方など

有無を言わせない実感のこもった動画は僕たちをアニメの中の世界に引き込みます。

しかし一方で、ストーリーのつながりは結構曖昧になってしまっていてぼんやりしています。

宮崎駿は脚本とクレジットされていても文章の羅列は書いておらず、

大量の絵コンテを組み合わせてストーリーにしていると語られていますが、

それによって前述の実感のこもった動画のシーンは担保されますが、高畑勲のようなリアリティは担保されません。

映画としての構造やストーリーは実は曖昧なんだけど、

シーンごとの実感によって世界に引き込み映画としての全体像も納得させてしまうのが宮崎作品だと思います。

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社会へと視点をうつすと・・・

これは論点を社会にうつすとそれぞれ必然的に問題を抱えています。

高畑勲の場合は、リアリティにコミットするための労力と費用を回収することが出来ないことが上げられます。

高畑勲はクオリティに対して妥協することがないので、そのための費用はいくらあっても足りません。

その結果として出来た映画は教養が無ければ本当の価値に気付くことが出来ず、少数の教養のある人間と未来の教養ある人間にしか見られません。

それでは、興行収入はなかなか期待できない。

ジブリでは宮崎作品で稼いだお金を食いつぶすような形で高畑作品が作られていたようです。

宮崎作品は、リアリティが曖昧になるためにリアルを誤解する人が出てくることがあります。

となりのトトロは例えばめいちゃんがトトロを追いかけて高い草むらを疾走するシーンなんかは、

半袖半ズボンで高い草むらを走り抜けたら、体のあちこちに切り傷が出来たり、むしろ虫がたくさん出てきてはしれるようなものではないと思いますが、

シーンに実感がこもっているので、自然がそんなもんだと勘違いしてしまう人が出てきます。

「子供にトトロをことあるごとに見せて自然教育をしています」みたいなことを言った女性に

宮崎駿は腹を立てたことがあったらしいですが、作品の性質上それも必然的といえると思います。

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高畑勲=ファクトリー

この二人の作風を僕のパフォーマンスにシフトしてみようというのが今回の趣旨です。

あくまで例え話なので、クオリティのことは無視するとして

未知子さんがファクトリーで作ってらっしゃる作品は高畑勲的で、僕の大道芸は宮崎駿的だと思っています。

伝統的なサーカスは演目が何種類もあり、それをオムニバス的に披露していく形が多いですが、

ファクトリーが作っている現代サーカスは30分なら30分のパフォーマンス全体を一つの作品として扱うことが多いです。

空中ブランコや綱渡りジャグリングなど、様々な背景を持ったアーティストがそれぞれの芸や演技を融合させたり、

果ては全て1から創り出したりして、一つの作品に仕上げていきます。

それぞれのアーティストの個性を融合させることになるので、その作品の価値は計り知れない一方

アーティストが一定期間集まって創作を行う必要があるため、かかる労力と費用は膨大です。

宮崎駿=僕の大道芸

僕の今回の大道芸は、僕一人で行うオムニバスでした。

ボールやリングなど、1つの道具につき5分くらいの演技を作っておき、それを自分でMCをしながらつなぎ合わせたものです。

クオリティについては宮崎作品とは比べるべくもありませんが、人を引き込みやすい演目を並べて、

その説得力で場を持たせて、私というキャラクターを売り込みます。

僕は塩江の方々に楽しい時間を過ごしてもらった自信はありますが、

僕が全国的に見て中の下くらいの実力のジャグラーであることは伝わっている気はしません。

立場と出来ること

どちらが良い悪いという話しではありません。

僕は前に、ボランティアで「習得までの労力の少ない芸」を披露する人が増えると、

観客の見識眼が下がってしまい、その地域の芸能全体への悪影響がある。

という趣旨のブログを書きましたが、その意味で今回の僕の大道芸は塩江の観客の見識眼をファクトリーが求めるレベルからは下げてしまいます。

それがわかった上で僕が今の芸をやっているのは、僕自身が当面生きるためです。

僕の芸を見ることで素晴らしい見識眼は育ちませんが、僕のキャラクターを知ってもらって愛着を持ってもらう事はできます。

それは、それ自身が一種の資産であり、直で見せられたら尻込みしてしまう本物の作品に入るための入り口にもなりえると思っています。

高畑勲監督作品は宮崎駿監督作品で稼いだお金を食いつぶして作られました。

僕にはファクトリーのようにフランス人を呼んだり補助金を申請したりする土台はありませんが

パフォーマーでありアーティストですので、大道芸で地域の方々に入り口を作ることも本物にコミットした作品を舞台にかけることも出来ます。

この四万十町で根を張り文化を育てていくには、このバランスを上手く取って、持続性を保ちながら少しずつ枝を伸ばすことが重要だと思っています。

目指すは押井守監督

そういう状況の中で、僕はまだ本物にコミットした作品というのを作れていません。

その「本物」というものを掴んでいる途中だからです。

僕の求める本物は、僕の住む四万十町です。

地域に根を張る活動の中で得られた感覚や繋がりを、僕が元々持っている芸の中に入れ込むには、

まだまだ、僕の活動量と時間が足りていません。

僕の尊敬する押井守監督は、高畑監督や宮崎監督のスタジオジブリのような守ってくれるモノがなかったので

作家性だけで作品を支えようとした「天使のたまご」を出してから3年間仕事がこない状況になり

その後は作家性と収益性のバランスをかなり意識しているような発言が見られます。

そうでなければ、監督としての持続性がなくなってしまうからです、四万十町に一人移住した僕も状況は似たようなものです。

持続性を担保したままそれを実行していくと、どうしても歩みが遅くなります。

それでも徐々に前に進んではいるのですが、

最前線を突っ走ってらっしゃる未知子さんに、歩みがないように見られる気がして

この前のパフォーマンスでは恥ずかしいいたたまれない気持ちになったようです。

こうして書くと気にすることではないのですが、いざ本人を前にすると話が別なようで、

自分のビックピクチャーをもっと信じられるように、活動していかなきゃなーっなんて思っています。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

四万十町在住パフォーマー 大学卒業後製紙会社に勤めていたが、移住を機に地域に根を張るパフォーマーとして生きていくことを決意。 2018年現在地域おこし協力隊として働きながらパフォーマーとして生きていいく道を模索中。 詳しいプロフィールや出演依頼などはメニューから各項目を参照ください。