多様性を受け入れるために 労災の話から

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多様性

つい去年まで「多様性」という言葉は僕の仲では農学的な言葉で

生物多様性という言葉とほぼ一緒くたになっていた

その多様性が重要になる局面は、まだまだ先というか、遠い世界のところで

研究者の世界で、ソースがどんどん少なくなってしまうというような認識だった

 

しかし、本を読んで、自分の周りの事柄に耳を傾けてみると、どうもそうでもないらしい

労災

労災という言葉は、工場では必ず耳にする

労働災害の略で、仕事中にした怪我や仕事が原因になって起こった病気の保障は会社が責任を負うべきという制度だ

 

これは一昔の感覚で言えば、例えば大きな機械で人体の一部を損なうような怪我とか

振動する機械を使い続けたことによる後遺症とかみたいな

作業と怪我の関係がわかりやすい事例のイメージが強かったと思うんだけど

福祉に関する教科書みたいなモノを見ていると最近はそれだけではないらしい

ストレス性の病気は労災になるか?

その教科書に書いてあった例は、うつ病に関する病気のことだった

入社して半年ぐらいの社員がうつ病で入院するようなことになったんだけど

その社員はその病気が「仕事でのストレス」が原因と主張して、労災として会社に責任を取ってほしいと言っている

しかし、その社員は過去にも別の会社に勤務中に同様の病気で入院している履歴があった

そして、その履歴を隠して就職試験を受けて、入社していたということ

これは果たして労災として認定できるのか?ということ

社員が本当に社内で罵倒されたとか病力を振るわれたとかそういう事実があったのかもしれないけど

もしかしたら、悪化するのが本人で分かっていて、当たり屋的に就職してお金を払ってもらおうとしてるかもしれない

こんなのはどうしたらいいのだろう?

その教科書は事実関係を確認するための栽培にもちこむまで行ってしまうと、社員にはなかなか勝算はない

というか、栽培自体に費用がかかるので難しいとの見解が示されていたけど、まぁ難しい

みんな違って・・・・

この話を読んでいて、僕は少し前に読んだ本の言葉を思い出した

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”このような話を教育関係の講演会ですると決まって「あ、金子みすゞですね。「みんなちがって、みんないい」ですね」と言う先生方がいる。私はそうは思わない。そうではないのだ。

「みんなちがって、たいへんだ」

という話をしているのだ。”

 

「みんなちがってたいへんだ」

まさにこれだろうなって思う

多様性というのは、何かしら遠くにある有用な概念でもあるんだけど

世界のグローバル化、インターネットの普及、世界の時間の均一化、そんなものの影響で

日常に溢れた問題になってしまっているのだろう

 

それは言い換えれば研究者やフリーランスにだけ必要な概念でなく

会社員でも不可抗力的に突き当たってくる問題になってきているということだろう

 

多様性を受け入れる能力の必要性が叫ばれる時代がもうやってきているのかもしれないよね

 

 

 

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ABOUTこの記事をかいた人

四万十町在住パフォーマー 大学卒業後製紙会社に勤めていたが、移住を機に地域に根を張るパフォーマーとして生きていくことを決意。 2018年現在地域おこし協力隊として働きながらパフォーマーとして生きていいく道を模索中。 詳しいプロフィールや出演依頼などはメニューから各項目を参照ください。