今風の自然淘汰を理解すればアートの意味が見えるかも 死なないやつら 感想

スポンサーリンク

少し前におばあちゃんが亡くなって

お葬式へと向かうにあたって、図書館でいくつか本を借りていった

不謹慎というなかれ、僕が住んでいる愛媛県からおばあちゃんの住んでいた栃木県まで

飛行機と電車を乗り継いで待ち時間も入れると4時間くらいはかかるのだ

でも、おばあちゃんが亡くなった状況だから、自然と死についてよく考えていたようで

今回紹介する本に手が伸びていた

死なないやつら

[amazonjs asin=”4062578441″ locale=”JP” title=”死なないやつら (ブルーバックス)”]

死なないやつら 極限から考える「生命とは何か」

 

前書きからこの本は「(生命とは何か)とは何か」というメタバイオロジーの本だ、という所から始まる

なんというか、「生物と無生物のあいだ」の作者の福岡伸一もそうだけど

本を著す生物学者っていうのは往々にして哲学に近づきやすいのかもしれない

福岡伸一の専門は遺伝子でありウイルスだったが、この人は「極限生物」が専門

とんでもない高温や低温、高い塩分濃度、果ては原発事故を30回ぐらい起こしても浴びれないような放射線まで

極限まで異常な状態に耐えれる生物について幅広く考察していくことで

生物の進化や、生命そのものの考え方なんかをわかりやすく解説していく

[amazonjs asin=”4061498916″ locale=”JP” title=”生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)”]

ネオダーウィニズム

僕が面白かったのは、進化論のところだ

進化論といえば、誰しもダーウィンの自然淘汰を思い浮かべると思うけど

今はそれに遺伝子科学の知識を加えた「ネオダーウィニズム」という考え方があるらしい

 

例えば、進化といえばキリンというのが定石だけど

このキリンのクビが長くなった理由も一昔前と少し解釈が異なる

よくキリンが背伸びをしていくことで、代々徐々に首が長くなったという図が絵本なんかに出ているけど

遺伝子という観点から見ると、本人の経験からくる変化(柔軟をして身体が柔らかくなったなど)は子供には受け継がれないとわかっているため

キリンは徐々に首が長くなった訳ではなく、遺伝子の異常で突然首が長い個体が生まれて、それが生き残っただけなのだ

 

つまり、それまで地面に生えていた草を食べていた祖先から、急に首の長い個体が出てきたわけだから

初めの個体はそれまで食べていた、地面の草を食べるのが難しくなる

しかし、(キリンに意識があるかは知らないけど)それを障害と捉えずに

「木の上の草を食べる」というライフスタイルの転換を行ったことで

それが当時の環境に適応して、その他の個体よりも有利になったために生き残ったのだろうということになっている

 

進化というのは、「もって生まれたカタチ」で頑張ったものが生き残った結果というわけだ

 

アートは進化への努力ではないか?

僕はこれがある種、今のアートの源泉なんじゃないかと思ったりする

アートというと非常に曖昧な言葉だけど、最近の僕の中では

「大衆には理解されないが大きな熱力を持っているもの全般」という理解である

 

アーティストのそれぞれの個性や障害なんかを作品として発散していく行為は

首が長くなってしまったキリンが、「木の上の葉を食べる」というライフスタイルの変化にたどり着くために

地面の草を食べるという祖先の行為から離れて、様々な可能性を試していく課程のようなモノだと思う

 

アートというのは、食べる行為や性行為から遠い事が多いので

どうしても生きることと分離した営みのように考えることが多いけど

アーティストの人が、その作品作りそのものに生への肯定のような感覚を持っている人が多いのは

それが生き物としての「進化」の課程を捉えているからではないだろうか

擬似的なのか本質的なのかはわからないけど

アートが美しいと感じるのは「進化」を感じるからではないかと思ったりする

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

四万十町在住パフォーマー 大学卒業後製紙会社に勤めていたが、移住を機に地域に根を張るパフォーマーとして生きていくことを決意。 2018年現在地域おこし協力隊として働きながらパフォーマーとして生きていいく道を模索中。 詳しいプロフィールや出演依頼などはメニューから各項目を参照ください。