不思議

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一昨日の朝に僕のおばあちゃんが亡くなった

多分東京に近いからだろうけど関東の方は、僕が今住んでいる四国と違って

葬儀場の数が足りてないらしく、お通夜もお葬式も一週間後ということで

まだ何の実感も整理もついてない今の状態だからこそ

書ける文章もあるだろうか?ということで、本当に何の脈絡もなく書いている

僕はこのおばあちゃんについ3ヶ月前に会っていた

小山のおばあちゃんと手打ちそば満留賀(まるか)

これは本当に思いつきだった

ちょうどその頃、来年実現させる新しい企画を考えていて

そのメインゲストに「直接会わなきゃ始まらない」という思いが強くなってきていて

去年父方の地元である千葉にはお墓参りに行ったけど、そういえば栃木には行っていない

親に合わせてゴールデンウィークって手もあるけど、もしかしたら忙しくなるかもしれないし・・・

よし、東京にいってメインゲストに会うのと栃木にいってお墓参りするのを一緒にやっちゃおう!

と思って、さっきも書いたように本当に勢いの思いつきで関東旅行を決行した

今思えば、なにかに導かれていたのかもしれない

僕は結局ゴールデンウィークには関東への帰省はしなかったので

もしこのとき勢いで決行していなかったら、3年ぶりにおばあちゃん会うこともなく、そのまま今生の別れになっていただろう

そう思えば、本当に導かれるようだった

僕は関東旅行ということで喜び勇んで行ったものの、高松空港から成田空港に降りたって1カ所ほど遊んだあとには

関東の電車の人の多さにげっそりしてしまって、19時くらいにホテルに付いたらご飯も食べずに眠ってしまった

いつもだったら、そこでそのまま22時くらいまで寝てしまって、あぁあ損したーって感じのはずなんだけど

なぜか10分後には全回復して起きていた

そして、前の記事で書いた想い出の蕎麦屋に歩き出すことになる

蕎麦を食べ終わった後も、近くのおばあちゃんの家には寄らずに、ホテルに帰ってしまうつもりだった

連絡もしてないし、なにより夜だから、びっくりさせてはいけないと思って、のんびりホテルに向かって歩いていたんだけど

おばあちゃんの家にいける道のギリギリのところで、ゆみさんから電話がかかってきた

「連絡しとくから、会いにいってあげてよ。玄関はずっと開いてるみたいだから、暗いと思うけど気をつけて」

次の日に墓参りに行く予定だったので、僕は次の日でもいいだろうと思ってホテルに向かっていたんだけど

どうも、おばあちゃんはデイサービスがあって次の日では会えなかったらしい

考えれば考えるほど、何かしらの力が働いていたような気がするなぁ

おばあちゃんの家はゆみさんの言うとおり玄関は暗かった

おばあちゃんの家の立て付けの悪い玄関をガラッガララッと開けて、昔ながらの床が高めの廊下に上がり込んでいくと

ヨタヨタとおばあちゃんが廊下の入り口まで出てきてくれた

足取りがヨタヨタとゆっくりで、たよりなくて、すぐに駆け寄った

このときに、おばあちゃんをどう支えていいかわからなかったのがきっかけで、介護職員初任者研修を受けだしたのは前に書いた

初任者研修記1 メーカー社員の僕が介護の資格を取りだしたわけ

相変わらず足の踏み場がほとんど無い掘りごたつの部屋に入って、まず仏壇に向かう

だいたいわかるけど、一応おばあちゃんに聞きながら線香を立てて、合掌して祈る

普段一人暮らしの部屋でやっているのと変わらない、ノンプレッシャーの状況での合掌

おばあちゃんは元々僕をせかすような人じゃないし、今はもっと動きがスローだし・・・

一応、10年前になくなったおじいちゃんの事を考えて祈ったかな、たしか

おばあちゃんは食事中だったので、そのまま食事をしてもらいつつお話をしていく

動きは全部がスローだけど、話す内容は拍子抜けするくらいにしっかりしていた

自分の世界に入ることもないし、「ごめんね、食べるのが遅くてね」とか言って常に僕を気遣っている会話だ

おばあちゃんと話すと、僕は基本的にはのんびり屋なんだなぁと思う、沈黙が苦じゃないというか

いつもは、相手に変に思われるから頑張ってしゃべるんだけど・・

「なんでも、婿にいくんだって?すごいね、思い切ったね!愛する彼女のために」

って言われたときは辟易しちゃったな

あぁ、「この世界の片隅に」の時代の人なんだなって思った

まだ子供の頃のゆみさんと正人さん(ゆみさんの弟)が写っている

セピアと白黒の間みたいな色合いの写真がコタツに出ていた

最近流行のエージング処理写真じゃない、マジのエージング写真だ、戸棚を整理してたら出てきたって言ってた

びっくりしたのは、その写真の時の情報をおばあちゃんが覚えていたことだ

ジャングルジムで遊んでいる二人の写真を見て「このゆみが着てる服は私が作ったんだけど・・」

ゆみさんが高校生くらいになっている写真を見て「これはーーに行った時の写真で・・・」って

あとで正人さんから聞いたけど、この日のおばあちゃんは普段より大分元気だったらしい

電話の声が普段よりと全然違ったって言ってた

コタツの部屋には、僕が幼稚園に入るか入らないかくらいの写真が飾ってあった

「そこにけんちゃんの写真があるのよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・不思議ね」

 

そりゃ不思議だろうな、きっと

ゆみさんの5歳くらいの写真があって、そのゆみさんから生まれた僕の5歳くらいの写真があって、28歳になった僕が目の前にいてしゃべってて

おばあちゃんにつられて・・・僕もなぜだか不思議な気持ちになった

 

それで、一昨日おばあちゃんがなくなって

 

本当に不思議だよね

大した実感もなく、全てが過ぎ去っていく

生きているってことは、養老孟司がいう「機能」のようなモノかもしれない

実体があるように見えて、常に同じで止まっていることはない

生きているということは本当に不思議だ

人の生はそれだけで尊いとか感謝すべきとか、信仰心のあつい人はよく書いているけど

尊いかどうかは知らないけど、僕の中で不思議なのは間違いない

おばあちゃんのように、死ぬ直前まで不思議だと思っていられたら、人生はずっと美しいのかもしれない

 

 

 

 

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ABOUTこの記事をかいた人

四万十町在住パフォーマー 大学卒業後製紙会社に勤めていたが、移住を機に地域に根を張るパフォーマーとして生きていくことを決意。 2018年現在地域おこし協力隊として働きながらパフォーマーとして生きていいく道を模索中。 詳しいプロフィールや出演依頼などはメニューから各項目を参照ください。