ゴールデンウィーク休みを終えて、昨日は久々の初任者研修だった
ゴールデンウィークでしばらく受けていなかったら、一日中授業を受けること自体がなかなかきつくて、特に昼過ぎは眠気がすごかったけど
それでもメーカー社員の僕にとっては新鮮なことや、納得出来ることなんかがちょくちょくあるので
そのたびになんとか目を覚ましつつ受けていた
今回は僕がやっているジャグリングでも似たようなこと考えたことあるなぁって話をひとつ
介護サービスは何を目的に支援していくか?
「介護」という言葉を聞いて何を思い浮かべるかは人それぞれだけど
だいたいの人はお風呂に入れてあげるとか、排泄のお世話をするとか、お手伝いさんのイメージを持っていると思う
しかし、医療が発達してなかなか人が死ななくなった世の中で、介護職員はこうした「お手伝いさん」ではいられなくなっている
高齢になっていくにつれてADLが下がっていくのは仕方ないが(ADLについては研修記2を参照)
だからといって全ての事を介護職員にやってもらって、介護職員の意志で自分の生活が決まっていってよいのか?
公共から、「要介護認定」を受けて、介護が必要になったからといって、人権まで剥奪されて言い訳ではないはずだ
だから、介護サービスの目的は「利用者が自分の能力と向き合いながら、自分なりに納得した毎日を過ごしてもらう」ということになっている
介護者によって利用者が「生かされている」介護ではなくて、利用者が自分自身で「生きていく」ための支援をすることが介護の目的である
そのために、通り一遍の身体介護を一様にするのではない、個別支援が必要になってくる
個別支援
もちろん、普通の人が想像する「入浴支援」や「排泄ケア」などは介護の大事な仕事だ
しかし、それはあくまで手段であって、介護の目的ではない
例えばホームヘルパーによる「利用者の家の掃除」は一般的な作業のようだけど
その掃除の仕方でも、利用者の声に耳を傾けずに介護者の主観でしてしまうと
利用者が掃除の仕方が十分と思えず不満が残ったり、逆に綺麗に為すぎて利用者が大切にしていたモノを捨ててしまうようなことも起きえる
さらに、利用者が自分で十分やっていける部分まで掃除をしてしまうと
それまで行っていた掃除を行わなくなることになって、結果的に利用者の残存能力を奪ってしまうこともあるだろう
介護は時間との闘い
介護でここら辺が難しいのは、特に介護保険を利用しているサービスは
サービスの内容と時間が基本的に決められているため、時間との闘いになってしまうことが多々あることだ
時間を超えて作業をしてしまったら、それは超過料金が発生するべきことなので
時間と戦いつつも、利用者の声を聞き、納得してもらうという芸当をしなければならない
しかし、そこで介護者が手段と目的を取り違えてしまうと
無力感の増大による認知症の進行や、過剰介護による残存能力の低下など
利用者さんのQOLを脅かすことに直結してしまう
だから、介護者が目的を常に意識して行動していき、手段と目的を取り違えないにしていくことがとても重要なようである
ジャグリングの多様化
上記の話を聞きながら、僕は少し前に読んだ下記のジャグリングのブログを思い出していた
http://piyochan0blossom0.blog.fc2.com/blog-entry-41.html
この記事は、僕がやっているジャグリングという趣味の世界について
近年多様化しているジャグリングの目的を、非常に大胆かつわかりやすく分類して
同じ「ジャグリング」という手段を使っていても、その目的は様々であることを明示しつつ
自分なりの目的を「軸」として持って認め合っていくことが重要って書いている、とても徳の高い感じの記事だ
目的と手段を取り違えない
手段(身体介護やジャグリング)と目的を取り違えないようにっていうメッセージは共通しているように思う
手段にとらわれて「その人が何を求めているのか」までを決めつけてしまうのは、どんな分野でもありうることで
それを止めるために「利用者のQOLを高める」と言ってみたり「他人軸を取っぱらう」と言ってみたり
「コンテクストを拾い上げる」と言ってみたり
社会が開かれて、成熟してきて、ただただ「プライバシーの侵害」ばかりを叫ぶだけでない
深い意味の「情報リテラシー」が必要な時が来ているのではないか?と思ったりする
そんな中で、介護というのはかなり進んでいるんじゃないか?というのが僕の今の所感である
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