思考の全てが「パフォーマンスの美学」にとらわれつつある今日この頃
[amazonjs asin=”4846003280″ locale=”JP” tmpl=”Small” title=”パフォーマンスの美学”]僕の大好きな猫ですらも、その美学で解釈しようとしている自分がいる
真摯なパフォーマンスアーティストとは
パフォーマンスの美学の主軸になっている理論
「オートポイエーシス的フィードバック循環」
パフォーマンスの美学によれば、この現象はパフォーマンスの種類に関係なく起きる
それを意識しようがしまいが、それが同じ空間を共有するパフォーマンスであれば起きる
どんなに古典的な「文学テキスト」を追い求める演劇であっても、その影響から逃れることはできない
そこを気付いたり感じたりして、そのフィードバック循環を浮き彫りにするような、実験的な演出を実行していくパフォーマーこそが
パフォーマンスの美学で例に出されるパフォーマーであり、今の時代の真摯なパフォーマンスアーティストだといえるだろう
リミナリティ
そういったパフォーマンスアーティストは、よく「リミナリティ」を演出に入れる
具体的には、観客がパフォーマーにならなければならない演出を行って、観客とパフォーマーの役割交換を行う
リミナリティとは、一種のエマルション(乳化)状態のようなものだ
水と油はまざりあわないんだけど、界面活性剤を入れてかき混ぜると牛乳みたいな白く濁った液体になり一時的にまざりあう(乳化)
そうなると水とも油とも違う法則にしたがった現象を示す液体が(一時的にだけど)できる
水を観客席、油を舞台の上として、パフォーマーが界面活性剤になって、演出でかき混ぜると、濁った中途半端な状態が出来上がり
そうなると、観客は傍観者ではいられなくなり、パフォーマーも一方的な語り手ではいられなくなる
これまで使っていた既成概念が通用しなくなって、新しい状態になる
これがリミナリティだと僕は思っている
猫の魅力はリミナリティ
猫はよく、人のいうことを聞かないとか、思う通りにならないと言われている
猫としては自覚はないのだろうけど、このとき飼う側と飼われる側の役割交換が起きていると思う
「猫さま」なんて言ったり、猫に人間のことを「下僕」なんて吹き出しを付けたりするのは
猫が行ったパフォーマンスによって、飼い主がリミナルな状態を経て既成概念が変化した結果であり
ある種、リミナリティを感じさせてくれるからこそ、猫は魅力に満ちているように思う
そういった意味で、よく躾けられた犬というのは、古典的な演劇の役者さんと似ていて、テキストに真摯だけど、パフォーマンスには真摯ではない
そこらへんのスタンスの違いが、僕が猫が大好きで犬がイマイチ好きじゃない原因の一つだと思う
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