第2回国際創作サーカスフェスティバル SETO ラ・ピスト
先日感想を流したIETOと同格の本公演
「ESPRIT 憑リクルモノ (ヨリクルモノ)」を見た
IETOは瀬戸内サーカスファクトリーの活動とは直接の関係はなく、存在していたカンパニーだけど
この公演の出演者 GdRA(ジェデラ)のお二人と木偶舎の勘緑さんは
代表の未知子先生がお引き合わせをして生まれた
瀬戸内サーカスファクトリーの企画のために生まれたカンパニー(というのかわからないけど)だ
(この情報、なぜか瀬戸内サーカスファクトリーの公式サイトに載ってないんだけど)
今回の公演はワークインプログレス公演ということで、まだ創作の途中段階の公演だ
公演に先立って琴平のほうで創作を行って、その成果をひとまず発表したところ
この後、フランスでの創作を行って、より内容や創作が深まったモノを来年のセトラピストで再度発表するらしい
瀬戸内サーカスファクトリーの創作にかける思いの深さがうかがえる企画だ
企画や作品そのものすべてにおいて「芸能の源流をたどる物語。」というのがメインテーマのようだ
IETOの時の同じく、実際見ないとわからないモノだし
かつ、まだ創作途中ということで、いつにもまして文章がまとまらないと思うけど
考えたことや感想をとりとめもなく・・・
芸能と生活が舞台で隔てられたとき
公演の2週間くらい前に、この公演も含めたセトラピスト全体について、未知子さんが解説するイベントがあって
憑リクルモノの解説をしている時に未知子さんがおっしゃっていた言葉
「芸能と生活が舞台っていう段差で区切られて分けられてしまったときに衰退がはじまったと思う」
(細かいところや解釈は間違っているかもしれません、あくまで僕が話から感じたモノです)
これは一見、なにかしら瀬戸内サーカスファクトリーの活動やパフォーマンス活動全般と矛盾しているように聞こえるんだけど、
自分で創作をしてみて、パフォーマンスの美学を読んでみた後の僕から見ると、(うまく説明できるかわからないけど)納得できる
[amazonjs asin=”4846003280″ locale=”JP” title=”パフォーマンスの美学”]パフォーマンスと通過儀礼の類似性
パフォーマンスの美学で紹介されているパフォーマンスの多くが
「パフォーマーと観客の役割交換」という手法を使っている
演出方法は様々だが、お客さんがパフォーマーにならざるおえない状況を作り出し
観客はシートにただ座って観察するだけの人間ではいられなくなる
その時に、観客はリミナルな状況になる
既存の概念がぶつかり合う状況を、パフォーマーの先導でパフォーマーと観客が共有することで
観客はこれまでの持っていた概念と新しい概念の間の中途半端な状態に入る、これがリミナルな状況だ
観客は、普通の状態からパフォーマーと共に作り出したリミナルな状況を経て、自分の概念や価値観が変化していく
これは、小さな村で、村の子供が一定の年齢に達した際に開かれる祭りのような通過儀礼と似ている
通過儀礼の際、村長や村人などがあたかもパフォーマーのように「祭り」という演出をする
すると、子どもは観客のごとく、「子供」というこれまでの概念と「大人」という新しい概念の間の中途半端な状態に入る
子供はそのリミナルな状況を経て、大人として新しい概念や価値観を持った人間として村の人間に認められる
パフォーマンスの美学に紹介されているパフォーマーは
パフォーマンスの最もパフォーマンスたるものはなにか?
という問いを突き詰めるために上記のようなリミナリティを重視している
そこから、古典的な演劇に見られる要素を全てそぎ落とそうとする
(それは例えば文学テキストだったり、観客を黙らせるための一般的に使われている客席の照明を真っ暗にする演出だったり)
それらは全て、芸能が生活から切り離されて、舞台の上で芸術視されるようになってからの手法だ
それらがあることで、パフォーマンスの一番パフォーマンスたるものが隠れてしまっているとしたら
「芸能と生活が舞台によって隔てられた時、衰退がはじまった」という考え方も納得できる
朽ち果てていくべきモノ
ようやく公演本編からの話
憑リクルモノは、勘緑さん本人の芝居、ジェデラの一人による音楽の演奏、もう一人による身体表現、勘緑さんの人形芝居が
事前に撮影された徳島の廃村(かつて人形芝居が行われていた舞台の朽ち果てている)の映像をバックにして
人形遣いと村を舞台にした物語の朗読(フランス語での朗読がすぐ後から行われる)をbgmとして
パフォーマンスが行われたり、全てが交じり合ったり、反発したりっていう
重いテーマをさらに複雑に表現するような内容だった
その中で、僕が印象に残ったのは終盤の映像の中の勘緑さんの話
「朽ち果てていくべきものなんだ、人形も今は操る人がいるからいいけど、もしなくなっちゃった場合は・・・」
「それを日本人の悪い癖で、人形を博物館に入れちゃって価値のあるモノにしちゃって」
「歴史の中でそうやって朽ち果てていって、っていうのを何万回も繰り返しているはずだから、魂はその場所に残るってこと」
(未知子さんの話と同様に、細かいところや解釈は間違っているかもしれません、あくまで僕が話から感じたモノです)
芸能の源流は何かしらのパワー?
芸能の本質は、人形そのものではない
もちろん人形そのものが、とてつもない魅力を持っているんだけど
それは動かす人がいてこそ、真の魅力が発せられる
その場所にかつての人や自然などが作ったエネルギーが残っていて
それの発露として人形芝居のようなパフォーマンスが出来る
その人の集まりや自然によるエネルギーが重要なのであって、動かす人がいなくなってしまっては
どんなに精巧で美しい人形であっても、それは抜け殻にすぎない
勘緑さんがどんな意図で物語を描いたのか、正確にはわかりませんが
僕は終盤の映像の中の勘緑さんの言葉を聞いて
上記のイメージで、それまでの物語をつなげていた
フランスでの創作の結果が楽しみ
今回の舞台は、勘緑さんの意思が強いのかな?とちょっと思った
ジェデラのお二人の演技が、おもしろいんだけど、全体に浮いているような印象を受けた
フランスでの創作を経て、その浮いた感じがどう変わっていくのか
全てつながるのか?
僕が未知子さんから感じた「芸能の源流」公演自体から感じた「芸能の源流」
それが、一つにつながるような感じがいただけるのか?
来年以降の変遷が楽しみでならない
コメントを残す