オタクイズデッド的ジャパニーズジャグラーズイズデッド論

岡田斗司夫の「オタクイズデッド」

「オタクイズデッド」という言葉は「自称オタキング」であった岡田斗司夫が2006年に使い出した言葉で

その名前を冠した講演をまとめた本が2008年に出ている

この「オタクは死んだ」という論点については、賛否両論、というよりかなり否定的な意見のほうが多いようで

「その時点でのオタク文化に岡田斗司夫がついて行けておらず、懐古主義のようなモノ」という評価があったりするし

この著者の岡田斗司夫というのはなかなかスキャンダラスな人物で

エヴァンゲリオンを作ったガイナックスという会社の代取という立場を使って声優やらの愛人が大量にいたとか

パイプカット手術を実施していることをカミングアウトしたとか

結構人格に問題があることような事件を持っていたので

岡田がクズ=オタクが死んだ論争も無価値、という感じになっているようなんだけど

この「オタクはすでに死んでいる」で書いている「文化の進行と世代間の格差」とでもいう構造は、なかなか的を射ていそうで

例え最終的な結論が間違っていても、例えそれを唱えた人物がクズでも、そのシステム構造自体は有用であることも多々あると思うので

今回は昨今のジャグリング界にも類似点があるんじゃないか?ということで考察をしてみる

オタクの第一~第三世代

この本ではオタクを下記の3つの世代に分けて整理している

第一世代=貴族主義

第二世代=エリート主義

第三世代=自分の気持ち至上主義

 

第一世代=貴族主義

まず最初の世代はオタクであることと社会性が全く無関係な所にあって

社会がオタクに対して見向きもしなかった段階だから、ある種の諦めの境地が入っている人たちだ

「貴族だから一般庶民と感覚が違って当然。いいとか悪いとか、劣っているとか優れているとかいう問題じゃない、違うんだから仕方がない」というのがオタク貴族主義の考え方です。(本文より)

初めてその価値に気付いて人生を傾けた世代だから、一般大衆との差を自明のモノとして受け入れて

しかし、それがもつ責任を引き受ける覚悟を生まれつきのように持っている、まさに貴族のような世代

この本ではオタクの他にSFを題材にして、全く同じような人種がいた事を挙げている

 

第二世代=エリート主義

その後、第一世代の影響である程度社会に認知され出した頃から

社会での地位向上を叫ぶ世代が出てくる

「俺はがんばって勉強して賢くなったから、この作品が理解できる。おまえたちがこの作品を理解できないのは、おまえたちが賢くないからだ、ダメだからだ!」(本文より)

オタク論みたいなのが大学で講義されると喜ぶような世代

努力しているのだから、一般大衆にも認められる文化としてあるべきだと考え

アカデミズムや権威に近づこいていこうという熱さがある

第一世代と第二世代の共通点

第一世代と第二世代は、社会へのプッシュが強いかどうかという差異はあっても

基本的には同じ精神性で支えられていたというのが本書の主張

私が定義したオタクというのは、子供っぽい趣味を選び、それに関して、精神力と知性でもって世間の目に対抗していく存在だということです。

「みんなが好きなものというのは人から与えられたもので、みんなから仲間はずれにならないために選んだようなものだけど、私たちは違う。自分が好きだから選んで、いまだに差別があっても選び続けているんだ」(本文より)

真面目で強い自意識を持っているのがオタクという人種だった

それが最近は変わってきているようだということを「オタクは死んだ」と表現している

 

第三世代=自分の気持ち至上主義

「萌え」という概念が流行ってしまって、オタク人口が爆発してしまったことで

その、ある見方で言えば誇り高い自意識を持たない人でもオタクということになってしまった

オタクという概念が現実を忘れて逃避する場所でしかないモノなって

オタクであることがアイデンティティーの問題になった世代が第三世代だ

つまり、自分がオタクであるということは、第一世代のように「人生をかけた趣味」の問題でもなければ、第二世代のように社会性の問題でもなくて、第三世代は「わたし」の問題になっているのです。(本文より)

ところが第三世代の「萌え」こそオタクである、という人たちの中心にあるものは、特定のジャンルや作品ではなくなってきました。「萌え」というのは対象そのものの特性ではなく、それを見たときの自分自身の反応を含んでいます。つまり彼らの関心の中心は、SFでもなくアニメでもなく、「それに反応している自分」なのです(本文より)

だから、著者は「自分の気持ち至上主義」と呼んでいる

オタクにバカが増えた

これを著者は別の媒体では「バカが増えた」と表現している

僕はこの意見に結構賛成で

世の中の流れは分かるけど、「自分の気持ち至上主義」の行き着く先は、文化の生産ではなく

ただひたすらの消費であり、ともすれば、搾取される側に回ることだ

搾取される人間がいなければそのジャンルが大きくならないし、回らないのだが、そういう側に僕はなりたくないし、そういう人間はバカだと思う

ジャパニーズジャグラーズイズデッド?

この「オタクは死んだ」という構造が、僕のいるジャグリング界にも当てはまるんじゃないか?っていうのが今回の考察

僕は少し前に、僕が住んでいる四国のジャグリングイベントである4JFの開催終了に際して書いた記事で

時代の流れと今後のジャグリング界に対する漠然とした不安をにじませていたんだけど

4JF開催終了 四国ジャグラーは衰退するか?

 

これは僕が上記の構造でいうところの第二世代であり

ジャグラーも社会の流れに合わせて第三世代に入ってきていることへの違和感だったのではないか?という予測を

独断と偏見で示し合わせてみる

あるジャグラーのビジョン

少し前に、あるポジティブなジャグラーとの会話で、ジャグリング界の現状について話す機会があった

正確に覚えている訳ではないのだが、だいたいをまとめると下記のような話をしてくれた

僕たちがジャグリングを始めた時代っていうのは、まだyoutubeも出るか出ないかの頃だったから、ジャグリングを始めたらジャグリングと一生付き合うっていうのが常識だった。

それが、メディアの進化で大学4年間や高校3年間である程度のレベルの演技が作れて卒業できるような時代になった。

それで入りやすくなって、前前前世とかわかりやすく共有できる曲で作るジャグラーもたくさん増えてきた。

その大量生産の中でも少数の意識の高いジャグラーが出てくるはずだし

ピアノやバレエのような習い事のように、ジャグラーに教えるティーチングプロのような需要も出てくるはずだ。

彼は僕よりもジャグリング歴が長いジャグラーだ、それこそジャグリングの黎明期のジャグラーと言ってよいと思う

何が言いたいかというと、先ほどのオタクの例よりもずっと建設的ではあるが

根本的な意識の余裕とでもいうものがオタクの第一世代、つまり貴族主義に通じるモノがあると思えないだろうか

最近流行のコンセプトをジャグリング外に依存する作品群

僕は4JFに関連して、もう一つ記事を書いていて

引用があらたな意味を獲得するとき(恋ダンスのツイートから)

 

これは、4JFのフリーステージで2016年に流行った「恋ダンス」に合わせてパフォーマンスした香川高専生に対して

暗喩で「僕はもっとダサい君らでいてほしかったー!」ってツイートをしたら

その年の大阪大学ジャグリングサークルのPVで「恋ダンス」が使われていて

僕の意志とは関係なくリツイートを集めたって内容なんだ

あと、最近ではRADルーティンメドレー企画っていうのがあって

RADってアーティストの曲に合わせてショートルーティンを編集した動画を作ろう!みたいな企画があったんだけど

このRADってのが確か「前前前世」とかのアーティストだった気がする(知らないけど)

どちらも、いかにもオタクでいうところの第三世代的というか

オタクがSFそのものの表現とかに執着しなくなったように、ジャグラーがジャグリング技術やジャグリング表現に執着しなくなっちゃってる感じで

この恋ダンスとかRADとかがオタクでいうところの「萌え」みたいなモノになって

アイデンティティーを主張していると考えれば、なかなか納得できるような気がする

僕は

だから、僕は最近の「萌え」オタクに対するミリオタみたいに生きていくのだろうと思う

僕にとってはジャグリングもパフォーマンスも、テレビや映画で流行っているメインカルチャーからコンセプトを借りてこなくても十分魅力的だ

たいした作品が作れるわけでもないし、それで食べれてる訳でもないけど

その僕の偽善を守るために僕は会社員をしているのだから

だらだらと批判を垂れ流しながら、パフォーマンスを続けて行こうと思う

スポンサーリンク




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です