祖父の着物用コートを着て感じる世界

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祖父の形見の着物用コート

少し前に富山の実家に帰ったときにゆみさん(母)から祖父の形見をもらった

今年の5月に亡くなった祖母の家を片付けていて持ってきたらしい

着物用のコートだ

本当は中に着る(?)着物もあったんだけど、祖父は僕よりも背が低かったようでサイズが合わなくて

コートだけはのんびりしていて洋服に合わせて着れそうだったのでもらってきた

着物は恐らく仕立ててもらってるだろうから、このコートも作りがしっかりしている

大好評

実家で「ちょっと健一、これさぁ」って見せられた時から既に存在感があった

袖に着物の袖を入れるための袋が付いているため、不思議なシルエットに見えるけど

でも、そこまで奇抜な印象は与えないので上品な感じがする

そんな風に思っていたけど、果たして周りに好評だった

11月の初めにもらってきて、休日出かける時はほぼ着ていて、ほぼ1日に1回はコートの話をした

仲間の女子大生(ホントは高専の後期生だけど)や、演劇の制作講座で知り合った女性

行きつけの理容師さんや、最近仲良くしてもらってるダンサーさんなんかとこのコートの話をした

僕は農学部で工学よりの研究をしていた、どちらかというとオタク系の人間で

瀬戸内サーカスファクトリーに関わるまではアートやファッションとはかけ離れた生活をしていたせいで

この手の方々には強めのコンプレックスがあるので

11月23日に開催されたサーカスファクトリー主催サーカスフェスの国外ゲストアーティストである

Bernard Quental(ベルナールカンタル氏に「それ欲しい、どこに売っているんだ?」と聞かれるに至っては

恐悦至極と言わざるを得ない

想いがのる

というのも、僕はこのコートの元の持ち主である祖父と祖母が好きだからである

祖父はゆみさん曰く「道楽」だったらしい

「江戸芸かっぽれ」を熱心にやっていて、いわゆる芸名を持っていた

スピード違反の常習だった

自分の会社を何回か潰しており、結局祖母がやっていた観光会社だけが残った

「DV」がたまにあった

家にはよくわからない郷土史の本がやたらめったらあった

など、ゆみさんが語るエピソードは今でいう「だめ男」的なものばかりだ

しかし、一方で僕の中の祖父のイメージはというと

いつも「ビシィィ!」と音が聞こえてきそうなくらい髪を整えている

コタツに座っているのにこっちが威圧されそうな感じで背筋が伸びている(ホントはどうだったか定かではない)

と、子供から見るとしっかりとした人のイメージなんだけど

総合すると、まぁ見栄っ張りのだめ男だろう

今の時代だって、バンドマンとかでイケメンで家庭内最悪って人の話はよく聞く

だけど、僕はそんな祖父に一種の憧れみたいのを持っている(初孫でかわいがられたのもあるかもだけど)

だから、祖父の形見が評価されるのはとてもとても嬉しい

モノにこそ記憶が染みつく

こんな話を前述の理容師さんに話して居たら、お店にある味のあるソロバンの話をしてくれた

そのソロバンも店主さんの祖父の形見らしい

そのソロバンはよく見る整然としたヤツではなく、枠も玉も木が既に黒ずんでいて

まるで工芸品のインテリアのように見えるくらいだけど

店主さんの祖父がバリバリ使っていて、店主さんが何度かスケボーにしたらしい

スケボーにしても怒ることもなく、新しいのを買うこともなく、ずっと使っていて

亡くなってから眠っていたのが、自分の店を持った店主さんの所にお守りとして回ってきたらしい

記録と記憶

こんなことを話していると「残せるくらいしっかりしたモノを持っておくべきなのかも?」という気がしてくる

僕は物持ちはいいほうなようで、未だに最初に買ったスマートフォンであるiphone 5 を使っているが

どんなに長く使おうとiphoneに子供や孫の代にまで残る想い出が宿ることはない

これははじめから寿命が設定されていて、更新されるべきモノだ

ジブリのプロデューサーである鈴木敏夫が本で

ツールがあるものはツールに任せてしまえばいいんです。そのために「記録」がある。「記憶」と「記録」は違いますからね。僕は人間の記憶容量には限度があると信じていて、それならば、その記憶容量はできるだけ大事なことに当てたい。だから自分のやったことを記憶するのは必要最小限にしよう、と思っているのですよ。

(仕事道楽 新版 スタジオジブリの現場 鈴木敏夫)

と書いているけど

経済性の一部を無視したようなモノには「記憶」が宿りえるのではないかと思う

「モノより想い出」という名キャッチコピーがあるけれども

大量生産で作られた工業製品には、写真を写し記録を書き込み、ネットに拡散する機能があっても

想い出が染みつくことはないのではないか

皆が共有できる数字を螺旋回転させてひたすら増幅して地球環境にそれを従わせるシステムに乗っかるより

皆が共有できない個を立てていくうちに、モノに想い出が染みついていくほうが

大分生き方としてマシなのではないか

そんなことをのんびりと考える

 

 

 

 

 

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ABOUTこの記事をかいた人

四万十町在住パフォーマー 大学卒業後製紙会社に勤めていたが、移住を機に地域に根を張るパフォーマーとして生きていくことを決意。 2018年現在地域おこし協力隊として働きながらパフォーマーとして生きていいく道を模索中。 詳しいプロフィールや出演依頼などはメニューから各項目を参照ください。