予備知識の全く無い分野の本を読んでみた
ゴダールと女たち 四方田犬彦 著
[amazonjs asin=”4062881187″ locale=”JP” title=”ゴダールと女たち (講談社現代新書)”]図書館で「ゴダール」という言葉が目に入ったので借りて読んでみた本
ゴダールというのは、ジャン=リュック・ゴダールというフランスとスイスの映画監督で
取り立ててフランス映画マニアということもない僕は、この人の映画は見たことがないんだけど
押井守監督が、著書で下記のように評価していて、気になっていた
それをやった男が僕の知る限り一人だけいるんだよ。それがジャン=リュック・ゴダールなの。彼もまた引用魔だからね。彼はベートーベンを引用し、モーツァルトを引用し、ときにはバッハも引用し、膨大な言葉を引用し、もちろん役者も引用し、政治的言語まで全部引用した。もちろん意図的にやってる。「映画は編集なんだ」って。エディットして、引用をいかに整理して新しい価値を生み出すか。それが映画なんだよ。そこには当然「誰が、何のために」っていう自意識が必要なんだよ。ゴダールというのは突き詰めて言えばそれだけのことをやった男で、それをいまだにやってる。
勝つために戦え!監督家業めった斬り 押井守 より
[amazonjs asin=”419907029X” locale=”JP” tmpl=”Small” title=”監督稼業めった斬り―勝つために戦え! (徳間文庫カレッジ)”]押井守がここまで言う映画監督とはどんなものだろうということで気になっていたところ
図書館で「ゴダール」の文字があったので借りてみたのだ
引用を多用する監督だったのかも
押井守は「映画は引用でしかない」とよく本に書いているんだけど
映画が引用でしかないことを認めた上で、その引用で構成される映画の本質とはなんなのか?
ということを、引用という側面から映画の構造を考えて再構築するような映画を作ることで確かめたい
というのが押井守の哲学のようなものだと思う
そんな押井守が、それをやったのはゴダールだけと言っているわけで
ゴダール本人がそれを意図しているかは別として
引用を多用することで、映画の構造に手を加えるような手法を使っていた監督なんだろう
ミューズで切り取るゴダール史
ミューズという言葉がある
ミューズとはギリシャ神話に出てくる女神で、文芸をつかさどっているらしく
芸術家の創作意欲を刺激する女性をこの女神に例えてミューズと呼ぶ
この本は、ゴダールの創作遍歴を、ミューズ遍歴と関連させて解説するという内容だ
この本では、ゴダールがミューズをどのように映画に固定したかったのか?というのが論点になっていて
ある種、それはゴダールの目的とも合致しているので、その間に当たる手法の部分は結構飛ばされているような気がする
ゴダールのミューズとのプライベートな関係と、それに伴ってミューズをどうしたかったのか?っていうのは解説されているんだけど
僕は前述の通り、引用をどう使ったとか、映画手法的なことが知りたかったので、ちょっと消化不良な感じ
まぁ、ゴダールの映画を見てから読めよって話なんだろうけど
女たち=パフォーマーミューズ
この本におけるミューズたちとゴダールは結婚している
4人ミューズが出てくるけど、そのうちの3人とはゴダールと結婚して、そして離婚をしているということだ
芸術家も人間なので、作風は変わっていってしかるべきだ
もし、この本が示しているように、ゴダールがミューズを作品の核に据えていたとしたら
それは、もう作風の変化とともに離婚するのはしかたない
ミューズが、例えば映画監督に対する小説家のように
別の表現手法を持っている人であればかまわないと思うけど
女優ってのは本人が表現手法そのものなので、本人自体も変わっていくものだし
そこに作品の核である理想を求めたら、まぁ普段の生活としてずっとうまくいくわけはないよね
パフォーマーミューズは不幸になりやすい?
映画監督と女優、演出家とパフォーマー、演出家と演奏家、プロデューサーとアイドル、バンドリーダーと女性歌手
そういう肩書を持っている夫婦とかカップルってのは、芸術家としての自分たちと普段の生活のバランスを取るのが、なかなか難しいんじゃないかな
ずっと表現したいものが一緒だったらいいけど、そうじゃない場合も多いしね
芸術家が才能を食われてしまうこともあるだろうし
パフォーマーミューズが不幸になることもあるだろうし
僕の数少ない知人関係や聞いた話でも、多分それで別れたんだろうな、みたいのがいくつかあるし
まぁ、カップルでとどまっていればまだリスクは少ないかな、結婚しちゃったらしっぺ返しも大きいし
それでも波乱に満ちてた方がおもしろい人もいるだろうし
なんとも言えないけどねぇ
僕は前回書いたように、立川談志的に彼女一筋だけど
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