「パフォーマンスの美学」・・・一読

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だらだらと3ヶ月くらいかけて、なんとか1回読みました

「パフォーマンスの美学」

著者 エリカ・フィッシャー=リヒテ

訳者 中島裕昭・平田栄一朗・寺尾格・三輪玲子・四ッ谷亮子・萩原健

論創社

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何故読み出してしまったのか?

ここ1年で急激に仲がよくなった、香川高専詫間キャンパスの大道芸サークルSPOTの2代目代表

まるくすくんに勧められて読み出した

まるくすくんとは最近本当に頻繁にパフォーマンスの話をしてて

この記事どうです?ってな感じで、パフォーマンスとかデジタルアートとかの記事を紹介してくれてて

その中に、出てきたこれ

いやー、とんでもない本があったもんだね

パフォーマンスっていうビジュアルな事が対象なのに

この厚い本の中に挿絵や写真が一枚もない(マジで一枚も!)

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これを紹介された時は、ちょうどシステムダイナミクス学派の本にはまっている時期で

結構短いスパンで同じくらいの厚さの本を読んでいて

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あー、まぁ読んでみようかーって感じで読み出した

実際読み出すと、面白いんだけど難解で、

ちゃんと理解しないで読み飛ばしながらでも、だらだら3ヶ月もかかってしまった

パフォーマンスの研究

パフォーマンスって聞くと、どうやったらお客さんを惹きつけられるか?とか

どうやったら芸事でお金が取れるのか?みたいな応用的な内容を想像しがちなんだけど

この本はバリバリ研究の本だ、それも基礎研究

基本的に、実際にあったパフォーマンスの例を出して、それがお客さんに与える影響を説明って流れなんだけど

その例がだいぶ極端

冒頭に出てくるマリーナアブラモビッチっていうパフォーマーの「トーマスの唇」ってパフォーマンス

表紙にもなってるから、かなり作者が気に入っているのか、推しているパフォなんだと思うけど

女性パフォーマーがまず全裸になってから、ハチミツとワインを常軌を逸して大量に平らげた後に

お腹にマジで刃物で星形の傷を付けて、自分で体を何度も鞭で打って、最終的に氷の十字架に横たわるってマジで死にそうになる

っていう控えめにいってとんでもない内容

これに対して、その十字架とかの記号的な意味じゃなくて、その記号的な意味を使っていることで

芸術家の作品を壊してはいけないっていう気持ちが観客に起こって

その気持ちと、人間的にこの人を苦痛から解放しなきゃっていう気持ちの、ふたつに概念の対立が起こっている

その中間的な状態に観客を追いやった事がこのパフォーマンスの肝だ

みたいな考察を加えていく

まぁ、HOWーTO本みたいな感覚では読めないよね笑

 

でも、分野は違っても大学で「研究」ってものに魅力を感じてた人は、この手法はなじみがあると思う

研究は、たどり着きたい答えを際立たせる、というか「それしかない」っていう風に限定させるように計画するものだ

他の要素が入り込んだりしたらいけない

結果の説得力と再現性を確実にするために、なるべくシンプルに答えが出るような条件を設定していく

「パフォーマンスの美学」の例はそういう風に、狙いが絞られた限定された例だから極端なものになっている

 

素材を扱ってる工学系の人にしかわからないだろうけど

シーエムシー出版の普及版前の7万とかする本みたいな感じ

 

思い出された事

とても内容について説明することなんて出来ないんだけど

色々な角度からのパフォーマンスの実験的な手法を見ていくなかで

2年前に高松で見たカミーユボアテル演出の「キャバレー」を思い出すことが多くあった

この本自体にはサーカスっていう単語とか概念はほとんど出てこないんだけど

そのそれぞれの例の実験手法とも言える演出手法を見ていると、「キャバレーに近い演出あったなぁ」

なんて思い出した、それも1つや2つじゃなく、結構たくさん

「キャバレー」自体も非常に難解な部分が多くて、僕にはなかな理解できなかったんだけど

カミーユボアテルは多分全部理論的に説明できちゃうんだろうな、これはきっと

 

これは芸術だ!っていうのを聞いた時の違和感

あと、瀬戸内サーカスファクトリーとか、他のサーカス的なカンパニーの宣伝なんかを見ている中で

周りに居る人が「これは芸術だ!いいモノだ!なんで評価しないんだ!?」って

直接でも間接でも主張してる人がいて、なんとなく違和感を感じていたんだけど

この本から、その感覚を解くとっかかりになるかも?みたいのがあった

その例は確か、リミナリティーっていう章の例だったと思うんだけど

パフォーマーの中で、上記の「トーマスの唇」みたいに観客の中の

常識というか規範というか、そういうのが壊された状態を作ることに重きを置いている人がいて

これは芸術だ!これは演劇だ!みたいな規範から逸脱させることこそパフォーマンスの美学だって考えて

それこそが目的みたいになっている演出をしてたらしい

一方でこれはーーだっていう答えが得られない状態は、「芸術にふさわしくない」って見方がかなりあったようで

それを解決するために、そのパフォーマンスのパトロンが「これは芸術だ!」って書かれたビラを配布したらしい

・・・で当然のようにそれをパフォーマーが回収してしまうっていう

 

僕が感じてた違和感は

これは芸術だ!とかそういうのはかなりナイーブで本質的な問題だから

それを宣伝とか商業的な目的のために口にするのはおかしいって感情だったのか?

パフォーマンス自体がそれとは相反するはずなのにって感じてたからなのか?

わからん

 

テクニカルタームの壁にはばまれて、かなり読み飛ばしたからなぁ

 

もう1周読んでみるかなー

 

そんな一読の感想

 

 

 

 

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ABOUTこの記事をかいた人

四万十町在住パフォーマー 大学卒業後製紙会社に勤めていたが、移住を機に地域に根を張るパフォーマーとして生きていくことを決意。 2018年現在地域おこし協力隊として働きながらパフォーマーとして生きていいく道を模索中。 詳しいプロフィールや出演依頼などはメニューから各項目を参照ください。