大学サークルの新歓
新生活の季節だね
日本のいろいろな場所で新しい生活がはじまっていくこの季節
大学の構内では、各サークルが新入生勧誘のためのテントや催しなんかをしているけど
そのテントの中でどこのサークルでもよく聞く話題がある
「かわいいこが入ってきてくれないかな」
僕は直観として、この話題自体がとてつもなく下品なものだと感じているんだけど
それではなぜ下品だと感じたのか?
その考察がまとまりそうなので、つらつらと書いてみる
誰が話しているか
このかわいいこ欲しい発言は僕の所属していたサークルでも男女問わず話されていたけれど
どちらかというと女性が言っている分にはそこまで嫌悪感は感じない
僕は、主に男性が「かわいいこが入ってこないかな?」という話題を話しているときに
いつも、もやもやとした違和感と嫌悪感を同時に抱いていた
それは多分、この場合の男性が使っている「かわいい」と女性が使っている「かわいい」では
根本的に使っている意味が異なっていて、その男性のほうに僕が嫌悪感を感じるってことだと思う
かわいいは多義的
この「かわいい」という言葉はなかなかにくせもので
意味合いとしては、かなり様々なニュアンスで使われている
一方で女性アイドルみたいな見た目を激しく気にしている女性に対して使われているのに対して
もう一方では全く見た目を気にしていない女性を指して使われるのはなぜなのか?
その答えの一つとして、少し前に読んだ平田オリザの本の引用を示したい
[amazonjs asin=”4062881772″ locale=”JP” title=”わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)”]”だが、ここに一つだけ、現代日本語にも、非常に汎用性の高い褒め言葉がある。
「かわいい」
これはとにかく、何にでも使える。
よく中高年の男性が「今どきの子は、何でも『かわいい』でボキャブラリーがないなあ」と仰っているのを見かけるが、ボキャブラリーがないのは、そう言っている私も含めたオヤジたちの方なのだ。
「対等な関係における褒め言葉」という日本語の欠落を「かわいい」は、一手に引き受けて補っていると言ってもいい。
(平田オリザ わかりあえないことから)”
上記の文章は、敬語を題材に日本語の性質を語る文脈の最後に出てきた文章だ
日本語はとかく上下関係を重要視する言語なので
目上の人から目下の人を褒める言葉や、目下の人から目上の人を賞賛する言葉はあっても
対等の関係の褒め言葉がほとんどない
その数少ない言葉が「かわいい」であるという流れだ
日本語における「かわいい」は多義的になってしかるべきなのだろう
女性の「かわいい」
これを踏まえて、男女の「かわいい」はそれぞれどういう意味を持っているのか?ということなんだけど
女性については、上記の平田オリザが言うところの「対等な褒め言葉」として使われていると思う
多少男性へ気を使っているとか小手先のことがあるかもしれないが
「対等な関係を築ける仲間がほしい」というのが本音のところだろう
問題は男性が使う「かわいい」の意味だ
男性の使う「かわいい」
これは僕に言わせれば「量産型セクサロイドが欲しい」ということになる
僕が所属していたサークルはマジックのサークルだ
確かに、見た目が万人受けするほうがマジックに有利に働きそうな気がするけど
かわいいかどうか?という問題は根本的にはマジックには関係ない
先ほどの男女の比較で言うなら、「マジックを通してお互いを高めあえる仲間がほしい」ということを考えると見た目は全く関係なくなってしまうだろう
ではなぜ「かわいいこ」を求めるのか
それはそういうかわいいことセックスがしたいからだ
セックスが言い過ぎなら、そういうかわいいこが持つ社会的立場を自分のモノにしたいのだ
かわいいこは作られる
ではこの男性の語る「かわいいこ」とはいったいどんな人間なのか
それは、時代によって変わってくるものだと思うけど
強引に簡単に言ってしまえば「テレビやネットに出れそうな人」ということになると思う
要は洗脳されているのだ
こういう人がかわいいこですよ、こういう人は経済価値を生みますよって暗にテレビが示しているのに、手もなく乗っかってしまっているのだ
韓国人のアイドルの整形率の高さなんかは、その最たる例だろうけど、日本だって似たり寄ったりだろう
下品だね
だから、似たような顔で同じようなファッションの女の子しかいない集団にあこがれて
そういう見た目の女の子が自分のサークルに入ってくれればと願う
それはそういうみんなが認める均質な形質を持った女性とセックスしたいということだ
見た目の好みなんて千差万別なはずなのに、こういう女性がかわいいというテレビやネットからの情報に喜んで洗脳されるのは
万人が認める価値を自分の努力なしに手中に収めたいからだろう
その怠惰な自己顕示欲とセックス欲が合わさって、世の男性は量産型セクサロイドを求める
僕はサークルには努力する対象であるジャグリングを求めていたから
その品のなさに違和感と嫌悪感を感じていたのだろう
量産型セクサロイドの生産体制
押井守監督の映画「イノセンス」は
[amazonjs asin=”B0018BL6SU” locale=”JP” title=”イノセンス アブソリュート・エディション Blu-ray”]ロボットメーカーがアンドロイドの試供品という隠れ蓑を使って提供していたセクサロイドが
暴走して持ち主を襲って殺害する事件を追っていくストーリーだが
現代の技術では、そんな精巧なアンドロイドを作るよりも
生身の人間を改造してセクサロイドに仕立てる方が楽だろうさ
僕は少し前「AKB風の女の子を見ると嘲笑が抑えられない」という内容の記事を書いたけどど
なぜ抑えられないかというと、その子達が上記の改造されているのに気付いていないセクサロイドだからだ
この世の中需要と供給で成り立っているので、そういう量産型セクサロイドがもてはやされて
女性のほうでも量産型セクサロイドが「かわいい」と信じちゃうことが起きる
まさに、量産型セクサロイドの生産体制だ
元々が情報の型のほうに人間を押し込めていくシステムだから、ネットとの相性が抜群で
ネットが日常として体の一部みたいになってしまっている子供からセクサロイドに仕立てていく
搾取
そして、量産型セクサロイドも、それが好きな世の男性も搾取されていく
洗脳されて、全てがその価値観しか見えなくなってしまう
それにあらがうためには、文化が必要だ
僕の尊敬する美輪明宏の言葉でいうなら「心のビタミン」だ
花鳥風月やノイズ、こだわりに準じた作品
そうしたものを積極的に摂取して、自分の視点を育てていかなければ
大量生産される工業製品のごとく、世の中から一気に捨てられる運命が待っている
最後にこの記事をまとめようと思ったきっかけになった動画をいくつか貼っておく
コメントを残す