介護の授業で出てきた劇作家平田オリザと同じ言葉
介護の授業でコミュニケーションの章をやっているときに
どこかで聞いたことのある言葉が聞こえてきた
「シンパシーからエンパシーへ」
これは平田オリザが著書「わかりあえないことから、コミュニケーション能力とはなにか?」でほぼ同じ事を言っていた
[amazonjs asin=”4062881772″ locale=”JP” title=”わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)”]この本でこの言葉は、学校教育のあり方について論じている章で出てきていて
正に目から鱗といった感じで読んでいたのだけど
その概念が教科書に普通に載っているとは、僕がそちら方面について無学なだけなのか
介護がやっぱりトップランナーであることの証拠なのか、いずれにしてもとても面白いのでちょっと解説してみる
シンパシー=同情
シンパシーという言葉は、結構一般的にもよく使う言葉なので
何気ない会話でも好意的な意味で使ってしまうんだけど
介護の教科書ではあまり好意的な意味では書かれていない
というのは、エンパシー=共感と比べて、介護職員の価値観で判断してしまっているものという意味合いが強いからだ
シンパシーは利用者の感じている事を理解しようという気持ちはいいのだが、利用者の感情を介護職員の感情や常識で理解して判断までしてしまうため
介護職員の感覚と同一化して自己もそう思うと感じて、利用者のことを理解しているつもりになってしまう
利用者の立場を理解してあげている、という立場から返事をすることになるので
容易に「そうです。わかる、わかる」と返答してしまい
結果的に利用者が見下された気持ちになって、自尊心が守られず、寂しさや傷つく体験をするかもしれない
無意識ではあっても、介護職員が精神的に優位に立って上から下へ見下ろすことになってしまうのだ
エンパシー=共感
これに対して、エンパシーとは、介護職員と利用者を対等な関係を保つことを意識したコミュニケーションで
まず利用者が感じている事をありのままに受け入れて、相手の立場になって感じた事を伝えていく
「ーのように思っているのですね」「ーなのですね」という返答で返すことで
利用者と介護職員の認識にずれがあった場合はそのズレを確認し合いながら、お互いを尊重して話を聞くことが出来る
介護職員と利用者が対等な立場に立って発言しあうことになるので
居心地のよい穏やかで落ち着いた空間を生成できるため、情緒の安定が図れる
平田オリザの教育論におけるそれ
平田オリザの著書における「シンパシーからエンパシー」という言葉は
日本の教育についての部分で語られていたと思う
(以下、本が手元にないので記憶をたよりに書くのであしからず)
いじめのロールプレイなんかをすると、経験の浅い先生が決まって
「いじめられた子の気持ちになってごらん」と言ってしまう
これはいじめられた子に同化してみろ、ということでエンパシーとシンパシーで言えばシンパシーのほうだ
いじめっこがいじめられた子に同化できるならば、はじめからいじめなんかは起こらないはず
いじめっこにいじめられた子の気持ちは絶対にわからないのだ
でも、いじめっこも人から嫌な事をされたことはあるはずで、いじめられた子はそれと似たような気持ちを感じているのだと教えてあげるのがエンパシー型の教育
つまり、共有出来る部分だけでも共有していくことで、なんとかうまくやっていく方法を身にさせようということだと思う
そういう意味でシンパシー(同情)からエンパシー(共感)へという言葉が出てきたのだ
介護は人間関係の枢軸にコミットするのでは?
僕が無学なだけかもしれないし、介護の先生が平田オリザを参考にした可能性もあるけど
平田オリザの「わかりあえないことから」は2012年発行でかなり新しい本だ
このシンパシーからエンパシーの概念が義務教育の現場に浸透しているとは思えないし
道徳の教科書にも先生の教育指導案にも、入っているとは思えない(実際は知らないけど)
あるなら、2012年の書物でわざわざ平田オリザが書く必要はないと思うからだ
もちろん介護の現場のことも僕は知らないから、介護の現場でこの考えが浸透しているかどうかも知らないけど
初任者研修の教科書にバッチリとこのことが書いてあるのは、とても先進的だと思う
それは、肉体的にも精神的にも徐々に失っていく高齢者という対象を持つが故に
介護という分野は、人間関係の枢軸のような部分に最もはやく肉薄していく分野だからじゃないかと思う
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