大槻ケンヂの歌詞
今年に入ってから、筋肉少女帯に再びはまった
ヴォーカルの大槻ケンヂは、中二病を引きずりながら生きる、はみ出しモノの代弁者だ
高校の頃筋肉少女帯にはまったときは歌詞なんてほとんどまともに聞かなかった
その頃はメタルの演奏が好きで、大槻ケンヂの歌詞にはそこまで注目していなかったからだ
大槻ケンヂの歌詞は、かなり文学寄りなのだが、単語自体は俗っぽいのが多いので
デーモン閣下の直接的で訓示的な歌詞が大好きだった僕にははまらなかった
でも、特に社会人になって、現代サーカスに触れるようになって、創作に魅力を感じるようになってから
この大槻ケンヂの歌詞がやたらとしみることがある
裸同然だけど表現欲だけを武器に
大槻ケンヂは学校で言ったら、一番目立たないグループにいた人間だ
明るくてクラスの中心になるようなグループにもいないけど
かといって、一番根暗のグループのように漫画やアニメなんかとは距離を置いているような
SF小説やマイナーな音楽ジャンルなんかの話にしか興味を示さないような感じ
その抑圧された環境からくるひねくれたパワーを、バンド活動という表現活動に注いだ結果
大ブレイクして、一気にTVに引っ張りだこになった
しかしブームは一時のモノで、それが去ったときにどうすればいいだろう?という状況になって
自分の力や価値に対する自信のなさを、自虐的に歌詞に書くようになる
権威のなさ
バンドマンとして世に出た大槻ケンヂだが、本人は他のメンバーと違って楽器は出来ない
かなり特徴的な声をしているけど、超絶歌唱力というわけでもない
歌詞の世界が独特で、小説もいくつか書いているけど、文学部出身とかいうわけでもないし
そんな、ある種の技術や権威のなさを目の当たりにして
僕はどうすればいいんだろう?
そういうアートとか絵画とかそういう権威のある表現活動と比べた自虐
それが創作パフォーマンスに近づいた僕の心と共鳴する
僕はブレイクはしてないけどね
僕はブレイクなんてしてないけど
ジャグリングという特殊な趣味をしていたので、創作パフォーマンスの世界に近づけて
そこからそれまで全く関わってこなかった「アート」関係の人と関わるようになった
3人でパフォーマンスのチームを造って創作をして、色々な考え方に触れることが出来た
その時に、自分のやっていることの技術と権威のなさに、ちょっと絶望する
ジャグリングの技術は正直たいしたことない、大会に出れるようなレベルにはない
一応昔器械体操をやっていたけど、中学からの3年くらいだし、パフォーマーとして身体の使い方がうまいわけでもない
いわゆる「アート」と呼ばれているモノは全て素人だ、本当にここ3年くらいで興味が出た程度に過ぎない
僕はなんて無防備なんだろうか、まるで裸同然で表現欲のみを武器にどうやって戦えばいいのか
そんな気持ちで創作の方に人生を傾けることも出来ずに会社員で生活している
トリフィドの日(以下文章が乱れます)
流星の雨が降り注ぐ トリフィドの日がついにきた
二人だけは生き抜く
植物に食らわれた町 あなたと私だけ残る
トリフィドの幹に駆け上り そして 星座まで行けるよ
(筋肉少女帯)
僕にとっては、成長の限界や人口爆発はトリフィドの日であり
創作パフォーマンスやアートとの関わりはトリフィドから逃れる術を知っていることなのだ
会社員をして生きながら、パフォーマンスを続けるのは
トリフィドの日が来たときに彼女と逃げ切るためなのだ
それがあってもなくても、僕にはそういう生き方しか出来ないのだ
大槻ケンヂの歌詞はそんな気持ちにぴったりと寄り添ってくれる
サブカルってのはさ、本当はこういうモノなんじゃないかと思うよね
無防備で手探りで、それでも圧力を持ったモノを造ろうともがいて
それで出来上がってくるモノなんじゃないかと思う
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